禅の道場「永平寺」で参禅。そこで見たものとは(前編)

永平寺に修行に行こう。

そう決めたのは2018年2月頃。長いこと抱えている悩みから解放されたくて、日常とは全く異なる環境を求めていた。

work awayや沖縄での住込みバイトも心惹かれたが、前々から気になっていたお寺での修行は有力候補だった。

以前、出張ついでに訪れた永平寺で一般の宿泊客が居たことを思い出し調べてみると、「厳しい」のオンパレード。「日本一厳しい」というワードで、これは行くしかない。と永平寺に行くことを決意した。

結果から言うと、この修行を経てその悩みから解放される、ということはなかった。

しかし、修行を通して新しい知識や新しい感覚に出会えたことは確か。

 

永平寺での参禅研修についてご紹介し、興味を持った方には是非思い切って参加してみて欲しいと思う。

 

 

参加申し込み


永平寺に問い合わせてみると、三泊四日の参禅研修は月に一度程度で開催日は決められているとのこと。4月の日程は10日から13日で、予約は1か月前の日の9時から。

 

3月10日の10時頃に数回申し込みの電話をかけるもなかなか繋がらず、予約殺到かと思ったが12時頃に無事に仮予約が完了。その後、往復はがきを郵送し本予約となる。

担当者から「結跏趺坐もしくは半跏趺坐ができる方に限らせて頂いています」とか「40分程度の座禅を多い時は10回程行います」という確認がいくつかあり、その凛とした声からも参禅研修の厳しさを早くも垣間見ることができた。

費用は3泊4日(8食付き)、袴貸与で20,000円。破格な値段設定だ。

 

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参禅研修1日目(入山): 受付の後、はじめての坐禅


13:00 集合、受付

15:00 応量器の使い方

17:00 薬石(夕食)

18:00 入浴

19:00 坐禅(止静→経行→抽解→止静)

21:00 開枕(就寝)

 

男性8名、女性6名の計14名の参加者が受付を済ませ、研修の場所となる「吉祥閣」の4階へ向かう。貸与された袴に着替え、まずはじめに研修の基礎となる作法を教授頂く。

  • 立っている時は叉手(しゃしゅ)
  • 坐っている時は法界定印(ほっかいじょいん)
  • 東司(トイレ)や洗面所の使用前後、仏様の前を通る際は合掌
  • 単(坐禅をする畳)への乗り方、折り方
  • 坐禅の前後にする対坐問訊(たいざもんじん)、隣位問訊(りんいもんじん)
  • 食事の作法(応量器の使い方)
  • 三黙道場(僧堂、東司、浴室)では私語厳禁

応量器(おうりょうき)とは、 禅宗の修行僧が使用する個人の食器のこと。梵語パートラPatra。音訳は鉢多羅(はったら)。鉢盂(はつう)、鉄鉢(てっぱつ)ともいう。

応量器は主に曹洞宗の呼び方で、臨済宗では持鉢(じはつ)、黄檗宗では自鉢(じはつ)と呼ぶ。

入れ子状に重ねられた5枚(黄檗宗では3枚)の容器からなり、袱紗膝掛浄巾(じょうきん)、水板(すいばん)、鉢単(はったん)、(せつ)などが付属する。

材質は鉄または土が本則とされ木製は禁じられているが、漆をかけたものは鉄製とみなすとして一般には黒塗りの漆器である。朱塗りのものは常用ではなく、主に儀式に用いられる。

応量器を用いた食事は厳格な作法が定められており、禅宗における重要な修行のひとつである。一番大きな器に粥を受け、以下、それぞれ定められた器に汁、香菜(こうさい=漬物)、副菜を受ける。

粥を受ける最も大きな器は、釈迦の頂骨であるとされ、頭鉢(ずはつ)と呼ばれる。頭鉢は特に大切にしなければならず、直接口をつける事、粗略に扱う事は厳禁である。また食事の他に、托鉢の際に布施を受ける器にも用いられる。

 

応量器を広げ、食物を受け、それらを頂き、応量器をしまうまでの作法を「展鉢(てんぱつ)」というが、世話役である雲水さんがひとつひとつの動作を口で説明してくれるので、それに従い進めていく。普段の食事で箸先は常に左を向いているが、応量器展鉢では食事の前後は箸先は右、食事中は自分の方を向いているなど、作法がまるで違っていて慣れない。しかし、無駄のない動きと流れで食事が進む感じは、茶道や弓道の作法と同じ、洗練されたものを感じる。

 

曹洞宗坐禅は、坐蒲(ざふ)に腰を下ろし、壁に向かって坐る「面壁(めんぺき)」という。足は結跏趺坐もしくは半跏趺坐を組み、目は半眼。止静鐘(しじょうじょう)という開始の合図で40分坐り、その後の経行鐘(きんひんしょう)の合図で10分間、経行(きんひん)という歩く坐禅を行う。抽解(ちゅうかい)が鳴ると、坐禅坐禅の間の10分程度の休憩となり、東司の使用も可能。続いて鳴る止静鐘にて坐禅が再開される。

 

止静鐘が鳴り、初めての坐禅が始まる。

開始5分の間は、静寂の中で外に流れる水の音が心地よく、坐禅を通して何を得ようかと意気揚々としていた。しかし、以降は緊張と疲れから眠気が襲ってきて、40分が2時間くらいに感じられる程長い。膝の関節がどうにかなってしまいそうに痛いが、途中で足を組み替えるなんてことはできる訳もなく、とにかくひたすら経行鐘(きんひんしょう)が鳴るまで耐える。2つ隣の単で坐っている雲水さんは微動だにせず、美しい姿勢のままなのが横目に見える。

経行鐘が鳴ると、単から降りて経行を行う。経行は、叉手をして一息半歩、つまり一呼吸で足の甲半分だけ歩を進める。向かい合う単の10名程で円になって行う為、周りの様子も感じながらゆっくりとした呼吸で行う必要がある。しかし、なんと経行のありがたいこと。足を延ばす時間はもっと欲しいくらいだ。

 

初日も無事に終了し、布団を敷いて一間の座敷に女性6名でゆっくりと就寝。電気が消えると同時に眠りに落ちた。

 

 

参禅研修2日目 : 厳しい坐禅修行に逃げ出したくなる


04:00 振鈴(起床)

04:20 坐禅

05:10 朝課

06:30 小食(朝食)

07:30 坐禅(止静→経行→抽解→止静)

09:00 講和、ストレッチ

11:30 中食(昼食)

12:00 作務(掃除)

13:00 講和

14:00 坐禅(止静→経行→抽解→止静)

16:00 薬石(夕食)

17:00 入浴

18:30 坐禅(止静→経行→抽解→止静)

21:00 開枕(就寝)

 

朝4時、雲水さんの鳴らす振鈴の音で目を覚ます。昨晩眠りについてから一度も目が覚めることなく、ぐっすりと眠っていた。各自布団をたたんで押入れにしまい、ばたばたと洗面や着替えを済ませて僧堂(坐禅をする場所)へ向かう。

 

朝いちばんの坐禅は身体の痛さはあるものの、気持ち良い。そして朝課のため、法堂(はっとう)へ向かう。毎朝ここに100名以上の僧侶が集い、お経をあげているのだ。研修の身である私たちは一番に法堂へ入って待っと、続々と修行僧や和尚さんが集まる。畳の目にそって整列され、その歩く姿も立ち姿もしゃんとしているがしなやかで美しい。2月に新しく修行僧が入山したと聞いたが、おそらくそうであろう初々しさが残る修行僧の姿も見えた。

 

朝課で唱えるお経は日々違っていて、前日に知らされたお経に付箋を貼っているので、私たちも合わせて読経する。巨大な木魚のリズムに合わせて100名の僧侶による読経は、法堂内での反響もあって圧巻。とても神聖な空間だ。この日は特別に、参禅研修参加者の氏名も読み上げられ、お焼香もして、お釈迦様へのご挨拶となった。

 

僧堂へ戻り、小食(朝食)をいただく。小食はいつも、お粥、沢庵、ごま塩と決まっている。この、ごま塩が格別に美味しい。ごまの香りが際立っていて、ごま油も入っているのかと雲水さんに尋ねたが、純粋にごまと塩のみで作っているとのこと。毎朝すり鉢ですっているのだそうだ。ひと手間としてすり鉢を使うだけでこんなにも違うのかと驚きだ。自宅でもやってみたいと思う。

 

坐禅を経て、和尚さんから応量器展鉢の際に唱える「展鉢の偈」などお経について解説して頂いた。展鉢の偈は、お釈迦様がカピラ城でのご誕生、マガダ国でお悟り、ハラナという町で初めての説法、クチラという場所で涅槃されるという生涯をお唱えし、このお食事は修行の為に頂くのだという意味をかみしめながら頂戴するものなのだ。

また、和尚さんのご友人の方のお話にはじんとくるものがあった。

友人の和尚さんは当時、毎日托鉢に出ていた。ある大雪の降った日、こんな日に施しをくださる人は居ないだろう、と思いながらも、毎日のことだからと托鉢に出た。すると、吹雪の向こうでピンク色の小さな光のようなものが見えた。近づいてみると、いつも施しをくださるお家の前に小さな女の子が待っていて、施しをくれたのだとか。おそらく、毎日来ていたから今日も来るはずだとその小さな女の子は親に言って待っていてくれたのだろう。そして和尚さんが「ありがとう」と手を合わせると、その指先を「冷たい」と言って手で包んでくれた。和尚さんは、この子がこんな風にしてくれるのに、今日はだれも居ないだろうなどと弱音を吐いていた自分を恥じた。

女の子の優しさと、それを受け取る和尚さんの心温まる話だ。

 

それから動きやすい服装に着替えてストレッチ。坐禅でバキバキになった全身をほぐす。開脚ができた方が坐禅も楽かと思いきや、そうではないらしい。どちらかというと、足の裏同士を合わせて座る合蹠(がっせき)ができる方が坐禅には良いそうだ。実際、世話役の雲水さんも合蹠は完璧だったが、開脚は苦手でヒーヒー言っていた。

 

袴に着替えなおして、中食(昼食)をいただく。昼食はごはん、味噌汁、主菜、漬物。お客様がいらっしゃる時などは市場に行って食材を買い付けることもあるが、修行僧が頂くような普段の料理に使用される野菜は、全国の檀家さんから送られてくるものなのだとか。沢庵も毎年2000本程の大根を樽漬けするという。

食事は僧堂で頂くので、私語厳禁。器を手に持ち、ごはんを口に運んだら、器と箸は降ろして手は法界定印に戻して咀嚼する。皆の咀嚼の音だけが聞こえる中、食べ進める。男女で食べる早さが異なる為に男性陣は女性陣が食べ終わるのをじっと待っていた。すると雲水さんより「男性は女性の方に合わせるように、少しゆっくりと食べるように気を付けてください。逆に女性は無理ない程度に少しだけ、食べる早さを気にしてみてください。皆さんが周りの様子を感じながら、同じ早さで食べ終わるのが理想です。」とのご指摘。こういった部分が、和、なのだなと感じる。

 

この日は最も坐禅が多い日。合計で400分程坐っていたと思う。私は自分が抱えている問題の解決の糸口をつかみたくて、参禅に来た。本来、坐禅をしている時は「無」であることが理想なのだと思うが、坐禅をしながらこの悩みについて考えたかった。しかし、そんな目論見は裏切られ、考えが浮かんでは消え、新たなものが浮かんでは消え…その繰り返しと眠気、身体の痛みで同じことを考え続けることは全くできなかった。正直、なんでこんなことしてるんだろう。身体が痛いばっかりじゃないか。帰りたい。とまで思ってしまった。そこそこの忍耐力があると自負していたのに、こんなにすぐ帰りたいと思ってしまった自分に驚き、大した忍耐力なかったんだな、と見つめなおすことができた。

修行を積んだ和尚さんでも、「無」でいることはほぼないという。大事なのは、浮かんできたその考えをつかまずに放っておくことだそうだ。

また、曹洞宗の開祖である道元禅師は、修行をしていてある瞬間に悟るということはなく、坐している姿がすでに悟りであり、坐禅をすることが修行ではなく行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、つまり歩くこと・留まること・坐ること・寝ることすべてが坐禅であると説いている。坐禅=修行と捉えがちだが、一挙手一投足すべてが修行なのだ。

 

坐ってばかりなのに、全身が筋肉痛になっている。最大の山場をなんとか超えて、この先も痛みとの闘いになるのか、慣れてきて終わりが寂しくなるのか、どちらに転ぶのか楽しみである。

 

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